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秋元征紘のコラム

先達の実践に学ぶ
1. カーネル・サンダース/KFC
人は感情的な動物、理屈のみでは動かない


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戦略的経営計画との出会い

1979年NSKを辞め参画した、自然甘味料ステビアの精製技術によるベンチャーは、通産省主導のベンチャー支援のプログラムに採用され、青森県百石町の産業団地にその精製工場を建設すべく準備中でありましたが、結果的には地元銀行の理解と支援が得られぬまま、たった10ヶ月で失敗してしまったのです。

当時、創立から10年で売上げ約300億円前後、外食産業の中で急成長を開始していた日本ケンタッキー・フライドチキン㈱(日本KFC)の大河原毅副社長は、この失敗の事実を快く受け入れ、私は新規事業担当部長として採用されました。その後大河原氏は1984年に社長に就任、1990年に日本KFCは東証二部上場となりますが、私は14年間を、世界のKFCファミリーの一員として過ごすことになりました。

全く異業種のKFCに於けるビジネス体験は多岐に及び、日米間の合弁企業の経営、80年代に急成長した日本の外食産業に於けるリテーリング営業のオペレーション、ブランドマーティング戦略の立案と実施、フランチャイズビジネスのマネージメント、新規業態の開発、情報システムといった体験は、その後の私の人生に画期的な変化をもたらすこととなりました。その中でも、最も重要な体験の一つが「戦略的経営計画」(Strategic Plan)との出会いでした。

日本KFCは三菱商事と米国ケンタッキー・フライドチキン社(KFC社)との50%・50%出資の合弁会社として1970年に設立されました。しかし米国側の株主は、その後のM&Aの結果、1972年ヒューブライン、1982年R.Jレイノルズ、1983年R.J.Rナビスコ、1986年ペプシコと変遷を重ね、主に企画・マーケティング関係の仕事をしていた私は、アメリカ側株主のトップマネージメントに向けての、「戦略的経営計画」の準備とプレゼンテーションを多数経験することになりました。

このような過程で、当時のヒュ-ブライン社長ヒックス・ウォルドレン氏(後のエイボン社長、会長)、KFCインターナショナル社長マイク・マイルズ氏(後のフィリップ・モリス社長、会長)、ナビスコ社長ロス・ジョンソン氏、ペプシコ会長ドン・ケンドール氏、ペプシ・コーラ社長ロジャー・エンリコ氏(後のペプシコ会長)といった、当時の米国を代表する経営者に直接、プレゼンテーション・討議・交渉するという機会を得たのです。

日本KFCは、大河原社長の強力なリーダーシップによる「和魂洋才」経営が効を奏し、その後十数年の間、毎年2桁の増収増益を達成し、1990年に東証二部に上場を果たしました。日本上陸の1970年からの数年間はその存続さえ危ぶまれた、ケンタッキー州コービン生まれの、カーネル小父さんで有名なファーストフードのブランドは、1992年にグループ売上げ1,432億円を達成するとともに、最高株価は11,300円に到達し、その日本に於ける成功のピークを迎えました。当時ニューヨークのPBCが「カーネルが日本にやってくる」(「Colonel comes to Japan」)という、日本KFCの成功物語についてのテレビ・ドキュメンタリーを制作してエミー賞を獲得しました。この番組は北米で何度も放映されましたが、その内容は、その後、ハーバード・ビジネス・スクールをはじめ、多くのMBAコースのケーススタディとして使われることとなったのです。

1986年から約2年の間、同じグループの日本ペプシ・コーラに副社長として出向しました。コーラ戦争におけるコカ・コーラ社との広告・PR合戦、マイケル・ジャクソンの「ビクトリーツアー」の日本公演における陣頭指揮の経験は、同社の戦略的経営の手法とともに、今でも鮮明な記憶として残っています。特に当時のペプシは若き戦略的エリート集団であり、驚くべきことに、世界の主だった市場のジェネラルマネージャーやマーケティングディレクターは、半分以上の時間とエネルギーを戦略的計画書の作成と、そのプレゼンテーションの準備に費やしていたのです。オペレーション・現場重視の日本KFCと全く正反対の企業文化の中で、私は営業・マーケティング・戦略計画の担当副社長として多くを学ぶことが出来たと思います。

ペプシに於ける本格的な戦略計画の体験の後、1988年、日本KFCに常務取締役として復帰し、東証上場準備の為もあり、日本KFCの戦略計画の担当も体験しました。またその前後にKFCのハワイ・韓国・台湾・フィリピン・グアム・サイパンへの事業展開の責任者を、そして更には当時ペプシコグループ内にあったピザハット事業のリポジショニングにも参画することになりました。データベースマーケティング、今でいう個店単位のCRMによるピザハットのホームデリバリー事業は、その後日本KFCの第2の柱として発展することとなります。私は、その後1991年日本KFCの営業統括担当常務として全国1,050店の直営・フランチャイズ店の責任者になり、グループ売上はそのピークを迎えることになったのです。


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KFC中興の祖、マイク・マイルズとQSCVOOFAMP

1890年生まれのカーネル・サンダース氏が1939年に完成させた、11種の秘伝のスパイスで有名なオリジナル・レサピを基本メニューとしたKFCは、1955年最初のフランチャイジーとなったピート・ハーマン氏の協力のもと創業しました。その後、創業時の弁護士ジョン・ワイ・ブラウンに引き継がれたKFC社は、先にも述べたように、1972年ヒューブラインに買収された後、1982年R.J.レイノルズ、1983年R.J.Rナビスコ、1986年ペプシコと株主の変遷を重ねることになります。

1983年、日本KFCのマーケティング本部長になった私に、大きな影響を与えた体験は、KFC社のマイク・マイルズ社長が、QSCVOOFAMP(Quality, Service, Cleanliness, Values, Other Operating Factors, Advertising, Merchandising and Promotion) という長い頭文字の並んだ新造語に要約される、ブランド再興の計画を展開したことです。

1960-70年代には「米国において、最も多くの百万長者を生んだ」といわれ、隆盛を極めたKFCも、80年代に入り、世界的に肥大したフランチャイズのシステムの中で、その創業の原点を忘れ、方向性を見失いかけていたのです。マイルズ氏は、創業以来のフランチャイジーや消費者の間ではなお絶大なる人気を誇っていた、80歳台後半のカーネル・サンダースをKFCブランドの中核に呼びもどすとともに、全世界の社員・フランチャイジーの志気を鼓舞し、ブランドの再興を果たしました。マイルズ氏は、この成功から、全米のヘッドハンターの間で「最も求められるCEO」(the most wanted CEO)と呼ばれ、後にクラフト社のCEOとなり、さらには同社を買収したフィリップ・モリス社のCEOになったのです。

当時のファーストフードでは、QSCVすなわちQuality(提供製品の品質)、Service(店舗スタッフのフレンドリーで行き届いたサービス)、Cleanliness(清潔な店舗)、Values(価格に見合った価値の提供)を他社店舗の水準以上に保つことが、店舗網の拡大戦略による急成長と激しい価格競争の中で、最善の競合対策と考えられていました。 マイルズ氏が加えたのはOther Operating Factors(店舗イメージ・設備・POS等の要素)、Advertising(広告・広報・宣伝)、Merchandising(メニュー構成、マーチャンダイジング)そしてPromotion(販売促進、プロモーション)つまりOOFAMPでした。

QSCVOOFAMPの全ての要素に関して、創業時の原点に立ち返り、改めて競争優位性を築くのが、起死回生をめざすKFCのマーケティング戦略でした。そしてその戦略の理解の徹底と同時に、社員や店舗スタッフやフランチャイジーのみならず、原材料・備品のサプライヤーから広告代理店に至るまで、世界のKFCビジネスを構成する数十万の人々に、その精神を正しく理解し、勝利を確信させる必要があったのです。


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カーネル・サンダースと「ピープルズ・ビジネス」

KFCの創業者カーネル・サンダースは、マイルズ氏の要請を快く引き受け、尊敬をもってKFCブランドの中核に呼びもどされました。カーネルは既に高齢で、体調が優れているわけではなかったのですが、このことを喜んで引き受けたのです。その後有名になった「先ず原点に戻ってから、新しいことを始めなさい」(Back to basics and start a new.)はこのときの言葉です。

オリジナル・レシピによる調理法は、再度カーネルの発明時の原点に戻り検証され、彼の顔とブランド名のロゴは、広告キャンペーンも含め、全世界で一新されました。

1990年に2回目の来日を果たしたカーネルは、90歳の高齢にも係わらず、日本KFCの社員・フランチャイジー向けのコンベンションに参加しました。背中に日本KFCのモットー"We are No.1."が印字された赤いジャンパーと、カーネルと同じストリングタイを着けた、多くの若い店舗社員との握手を精力的にこなし、そして私に「この一つ一つの握手が、我々にドルをもたらすのだ」と囁いたのです。KFCをしばしば「ピープルズ・ビジネス」(People's business)と表現することを好んだカーネルは、「人は感情的な動物で、 理屈のみでは動かない」というビジネスの原点を教えてくれました。「もし君達が彼等の面倒を良く見れば、彼等が君達の面倒を見てくれることになる」とも。

この年の12月16日、世界で約6千店舗のKFCフランチャイズチェーンを、64才からのたった26年の間に作り上げた、アメリカンドリームの体現者で、世界中の子供達を愛し、そして愛され続けたカーネル・ハロルド・サンダースは90歳で永眠されました。


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Hard way becomes easier, but easy way becomes harder.

カーネルの残した、このもう一つの格言の意味は、彼自身の言葉で次のようなものでした。
「困難な道...簡単な道のほうが効率的で、早く成功できるかもしれない。険しい道を進むのは、努力が必要であり道のりも長い。だが、時が進むにつれ、最初簡単だった道はだんだん難しくなり、険しかった道は徐々に容易になってくる。そして、長い年月とともに、簡単な道は砂の上に建てた櫓のように危険が増してくるが、険しい道はしっかりとした自信の上に作りあげられているので、崩されることはない。...こうして我々は造った。」

オリジナル・レシピの完成の2年前、1937年ケンタッキー州コービンでのことでした。


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  代表 秋元征紘が
  ジャイロ経営をご説明します。