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秋元征紘のコラム

先達の実践に学ぶ
3. フィル・ナイト/ナイキ
消費者・社員との感情的な絆の構築


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ナイキの誕生

1993年、(株)ナイキジャパンの代表取締役社長に就任、日商岩井(株)の子会社であった日本のナイキをグローバルナイキの組織に組み入れるための事業および組織の改革に取り組むこととなりました。

当時、私が全国の出店店舗数が直営・フランチャイズを合わせて1,000店を超え、グループ売上約1,500億円、東証二部上場を果たした日本KFCの営業統括常務だったときに、そのチャンスは訪れました。その2年程前に、ペプシ時代の同僚だった英国人のリーボック社アジア地域担当副社長から、日本支社長のオファーがありましたが、「ナイキの話であれば受けるけど」と断った経緯がありました。ナイキ社の日本・アジア担当副社長からの熱心な説得もあって、フィル・ナイト社長による面接のために、オレゴン州ポートランド近郊のビーバートンのナイキ・キャンパスを訪れることとなり、その機中で流し読みした本が、後に「ナイキの裏社史」呼ばれた、J.B.シュトラッサーと L.ベックランドが著した「スウッシュ」(SWOOSH)の英語版でした。

マイケル・ジョーダンをナイキの代名詞にし、フィル・ナイトと共に世界一のスポーツ&フィットネスカンパニーへのきっかけを創った盟友でありながら、後に袂を分かつことになったシュトラッサーの語るナイキの誕生物語とその躍進の過程は、大変に感動的なものでした。

1957年、米国オレゴン州ユージーンにあるオレゴン大学の陸上競技コーチ、ビル・バウワーマンと中距離ランナーだった創業者フィル・ナイトとの出会いが全ての始まりでした。

1962年、スタンフォード大学のMBAに在籍したフィル・ナイトは「今後、低価格・高技術の日本製シューズが、米国アスレティックシューズ市場を席捲しているドイツ製シューズにとってかわるであろう」と主張した論文を発表して来日、オニツカタイガー社の鬼塚社長に会うことになるのです。

フィル・ナイトとバウワーマンはブルー・リボン・スポーツ社(BRS)を設立し、1963年の200足の「オニツカタイガー」シューズを皮切りに、順調に輸入販売を拡大してゆきました。フィル・ナイトはそれまで公認会計士事務所に席をおき、オレゴン大学の会計学の講師を勤めていましたが、1969年に創業者として社長兼CEOに就任し、その経営に専念することになりました。

1971年、業容拡大の中で米国国内取引先の支払いサイトと輸入ユーザンスの差を埋めることを地元の銀行に拒まれ、この問題から経営危機に直面したナイキは、日商岩井ポートランドのトレードファイナンスに救われるという事件が起こります。一方、オニツカタイガーとは販売権に関する訴訟問題がおき、 1972年その関係は断絶したのです。

陸上競技場のトラックをイメージした「スウッシュ」のマークは、フィル・ナイトの会計学の教室の女子学生のデザインで、その対価はなんと35ドルでした。又、元陸上選手で、BRSの一号社員であったジェフ・ジョンソンの夢の中にギリシャ神話に於ける勝利の女神ニケアが現れたことから、その短縮された 4文字のブランド名「NIKE」が 誕生したのです。


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スポーツ&フィットネスカンパニー

1978年、BRSはナイキ社となりました。その後1979年の「ナイキエアー」に代表される新技術・製品の成功裡な投入や、従来のランニング・バスケット・テニス・野球に加え、サッカー・ゴルフ・アウトドア・クロストレーニングといった対象スポーツ分野の拡大、あるいはスポーツアパレルへの進出を経ながら、その業容を拡大し、1991年には年商20億ドルを超え、世界で初めて「スポーツ&フィットネスカンパニー」としてのリーダーシップを確立することになったのでした。

米国中長距離陸上の伝説的英雄スティーブン・プリフォンテンに始まり、1974年ウインブルドン・USオープンを制覇したジミ-・コナーズ、テニス界の反逆児ジョン・マッケンロー、1984年ロス・アンジェルス五輪で4つの金メダルを獲得したカール・ルイス、NBAシカゴ・ブルズのル-キーであったマイケル・ジョーダンといった、スポーツ界の英雄達との間の 選手契約とコレクション戦略で構成される手法は、スポーツマーケティングとして確立され、その活動の中核となりました。


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「感情的な絆」と"Just Do It."

1989年の「Just Do It.」(JDI)キャンペーンに、ナイキ社は下記4つの意味をこめました。

 ・ 人々が主体的に人生を選んで、行動してゆくことの薦め
 ・ 地球上の多くの、最高レベルのアスリートに、最も良く理解されている確信
 ・ 広告コピーである以上に、個人的な夢の実現への提案
 ・ 有名選手と同じように、普通の人々にとって、人生に特別の意義を発見する
   機会の提供

このJDIキャンペーンの大成功により、NIKEというブランドと消費者との間に、スポーツ選手・実践者の感動を共有させる「感情的な絆」(Emotional tie)を確立しようという考え方が、ナイキ社の戦略計画のミッション・目標・戦略の中核として位置付けられたのです。

この中長期的な視野に其づいたキャンペーンは、世界中の各市場で名実ともにナンバーワンのスポーツ&フィットネスカンパニーを実現する上での基本精神であり、ナイキに於いては新しい時代精神であるとさえ考えられていました。又、このJDI精神のメッセージが、社員やナイキが応援するアスリートを含めた多くの人々にも向けられていたことも、大変重要な意味を持っていたのです。

私は、オレゴン州ビーバートンの74エーカー(約9万坪)の土地に立ち、本格的なサッカー場と巨大な体育館と数キロに及ぶジョギングコースを備えたナイキワールドキャンパス(1990年竣工)と呼ばれる本社で、最初の4ヶ月を過ごしました。この素晴らしく近代的な建物・設備は、本社というよりはこのJDI精神の道場と化していました。何時でも、誰でもエクササイズをすることが許されているこのキャンパスでの最も厳しい規制は「禁煙」でした。


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ナイキと日本市場

日本市場に関しては、1981年に(株)ナイキジャパンがナイキ社51%/日商岩井(株)49%の合弁会社として設立されましたが、1986年経営危機に見舞われ、ナイキジャパンは保有全株式を日商岩井(株)に譲渡することになりました。ナイキはこのようにして、結果的に再び日商岩井(株)に救われることになったのです。その後ナイキ社の業容の飛躍的な改善と、日本市場におけるマイケル・ジョーダンに代表されるバスケットシューズや「ナイキエアー」の若者の間での圧倒的な人気・ブームが到来し、1993年マッキンゼー社の提案に基づき経営権を再び日商岩井(株)からナイキ社に移管、1994年日商岩井(株)保有の全株式はナイキ社に譲渡されました。

この日商岩井(株)の子会社であった日本のナイキを、グローバルナイキの組織に組み入れるための改革のために、再三にわたるヘッドハンターによる説得とフィル・ナイト以下首脳陣とのビーバートンでの面接の後、私は上場を果たした日本KFCの営業統括常務の仕事から、更なるチャレンジとしてナイキジャパンの社長に就任したのです。日商岩井(株)の100%子会社であったナイキジャパンを、グローバルナイキの企業文化・組織に組み入れるための事業および組織の改革に取り組むことが、私の使命となりました。この年のナイキ本社の売上は39億ドル/税引き前利益約6億ドルを記録していました。


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ナイキジャパンのグローバル化戦略

日本KFCやペプシ・コーラの成功によって得た様々な経験と自信から社長業を経験してみたいという願望に加え、私にとってのこの時の最大の関心事は、100%日本型の経営を100%グローバル型の戦略的経営に転換するという「文化的挑戦」の経験が出来ることでした。

しかしこの挑戦は、その後当初の予想をはるかに上回る困難さを伴ったのです。それまでの、アベグレン氏の「日本の経営」に描かれたような経営と、1990年代のアメリカの復権の象徴のような「ナイキの経営」とのギャップは、まさに2つの文化の衝突といっても過言でない状況を現出させたのです。

この時、私が提案・提唱したナイキジャパンのグローバルかのための1994年度戦略計画のミッションステートメントは、

 ・ 売上高および経常利益を継続的に伸ばすためのブランド/販売体制/
   物流体制/組織の再構築
 ・ 消費者との感情の絆の確立を通して、日本でのNo.1のスポーツ&
   フィットネスカンパニーに育てあげる
 ・ 日本を"グローバルナイキ組織"の成功例にする

目標・戦略は、

 1. ブランドの再構築
 2. ディストリビューションの再構築
 3. 組織の再構築
 4. 利益の確保

の4つのカテゴリーに分け、詳細に記述されました。この中で「消費者との感情の絆の確立」と「ナイキジャパンのナイキ化」が最重点のテーマとなりました。

特にナイキジャパンのナイキ化に関しては、そのための9原則(バリュー)は、ナイキ社のPACITと呼ばれた5つの価値(5 Values)、つまり1. Performance(勝利をめざす)、2. Authenticity(本物・正直)、3. Commitment(約束を果たす)、4. Innovation(常に革新をし続ける)、5. Teamwork(結束・チームワーク)をベースに日本の実態に合わせて作られました。

 1. アグレッシブ・オネスティ-(積極的・正直)
 2. 協力し合って働く
 3. 必要に応じて厳しく、且つ困難な意思決定をも行う
 4. チームメンバー間に信頼関係を構築し、責任と権限を委譲する
 5. コミュニケーション改善への絶ゆまぬ努力を行う
   ・ マネージメントチーム
   ・ 社員
   ・ 顧客(小売店、消費者)
   ・ パートナー(代理店、他者等)
 6. 現場を常に重視することにより、市場の実態を正確に把握する
 7. 革新的アイデアが生まれる環境を創出する
 8. 常にナイキを熱心に語る
 9. 仕事をエンジョイする


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ナイキ化が、はたしてグローバル化か、それとも単なるアメリカ化か

日本市場において戦略的に重要と考えられたサッカーの分野では、日本に於けるJリーグの成功に伴って、グローバルナイキの新分野として様々な活動が開始されており、様々なプログラムが始動していました。また、もう一方の重要カテゴリーの野球の分野でのナイキ的なアプローチとして、近鉄の野茂英雄選手と再三にわたって面談し、ダン・野村氏に協力しながら大リーグ行きの協力を始めていました。

全社的に奨励したジョッギングは「JDI精神の実践と社内禁煙運動」の一環として始められ、1994年12月11日に行われたハワイ・ホノルルマラソンを8人のナイキジャパンの社員とともに私自身が42.195キロを完走し、JDI精神の模範として逆に社員から表彰されることとなりました。

一方、私の直属・ダイレクトレポートの、本社から派遣されて来たマーケティング、システムロジスティク、フォーキャスト・在庫管理、経理・財務の4 人の担当マネージャーは、日本の改革の遅れ等の日本社会に関しての不正確な知識や理解に基づいた誤った内容のレポートを、逐一それぞれのマトリクス上の上司に、私には何の連絡も無いままメールや電話で直接報告していました。その結果本社のあらゆる部署から送られてくる意味不明の様々な質問に対応せざるを得ず、多くの時間とエネルギーが消耗されました。

このような状況の中で、売上や業績は順調に推移し、2回目の本社取締役会での報告も終えて、何とか改革の方向性が見えてきたと感じ始めた約2年後、突然に香港のアジア太平洋地区での日本で行った改革に類する、より広範な責任を持ったポジションへのオファーがありました。

一連の改革への過程で「ナイキ化が、はたしてグローバル化か、それとも単なるアメリカ化か」という疑問が常にありました。1980年代に自信喪失状態であった米国企業の1990年代における復調と、それに基づく自信、特に若手のマネージャーの間に共通する、ある種の傲慢さと、異文化の歴史・伝統に対する無知、あるいは無関心、更には、はなはだ幼稚とも思える即物的な野心に、ある種の不快さと違和感を持ち始めていました。

毎月曜日のスタッフ会議で、4人のアメリカ人の部下から「細川政権下の遅い日本の改革・・・」、「合理的でない、論理的でない日本の商習慣・・・」等々の日本批判が出るたびに「我々が此処に集まっているのは、日本を変えるためにではなく、ただもっとナイキの靴とアパレルを、夢や情熱と一緒に売るために居るのだ」とたしなめることに飽きていたのです。


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